香川といえば「うどん県」と命名しているほど「さぬきうどん」は有名でよく知られていると思うが、実は「ため池県」でもある。
香川は全国一小さい県であるにも関わらずその数は現在1万2千231カ所と兵庫、広島に次いで全国で3番目に多く、県土面積当たりの密度は全国一でまさに、ため池が「ひしめいている」と表現されている。
かつては県下で2万カ所ものため池が点在していて、香川、とりわけ香川農業の歴史はため池の築造なしには語れないといわれている。先人たちが、ただ自らの人力のほか何らの知識も機械もなかった時代に、営々として築き、守ってきた記念碑ともいえる数多くのため池であるが、これらため池には、その一つひとつに興味深い物語が秘められている。
なぜ香川にこれほどのため池が必要であったのか、1番には雨が少ないことである。瀬戸内地域は雨が少なく、特に香川の年間雨量は1100mmと全国平均が1700mmなのに対し568%にとどまっている。

2番目に用水源にできるような大きな川が無いことである。香川の川には河原はあっても水が無いといわれる。それもそのはず、香川県の東西は瀬戸内海に面していて長く、北は讃岐山脈から海まで長いところでも300kmに満たない地形である。雨が降っても千メートル近い山から一気に瀬戸内海に注いでしまい、元の河原に戻るありさまである。
平安時代、讃岐国司から朝廷への願文に「晴天5日を経ば水湿の潤な霖雨(りんう)(長雨)2日に及べば洪水の難あり」とあり、高松藩の記録にも「讃岐国は南は連山、北は海に面し、地勢北下り故、川浅く水乏しく、常水の川一つもこれなく」としているが、正に的確な表現であり水田用水としては全く役に立たない。

3番目に、河川の流域、つまり雨水を貯めておく森林の面積に比べ農地、特に水田の面積がはるかに多いことである。香川は他県に比べ比較的平坦な土地が多く、温和な気候に恵まれ、古くから水田開発が盛んに進められた。
以上、雨が少なく、川が無く、しかし水田は多い、このような条件のもと稲作水田農業を行うためには、ただ一つ、一年中に降った雨をできるだけ海に流さず貯めておくことだ。

香川の代表的なため池と言えばまず「満濃池」があげられる。一般的には空海こと弘法大師さまにより築造されたといわれているが、実際にはそれより古く大宝年間(701年~704年)飛鳥白鳳時代に国守道守朝臣という人がはじめて築いたとされている。

その後110年ほどの後、弘仁9(818)年満濃池は決壊の憂き目にあい、当時の国司、清原夏野はさっそく朝廷に願い出て、朝廷は「筑池使」として路ノ真人浜継を派遣し、修復に当たらせたが工事は難航した。なにしろ川の本流をせき止め、堤を築く、それも全て人海戦術なので大雨があればせっかくの堤も流され、連日の重労働に農民たちは疲労こんぱいの有様であった。

一年が過ぎても成功の見通しがつかず困った国司は、当時京都在住の讃岐出身の僧、空海を築池の別当(本来の官職と別の職務の長官)として派遣するよう朝廷に願い出た。その願書には次のように書かれていた。「築池使、路ノ真人浜継等は、去年から萬農池の修築に当たっておりますが、池の規模は大きく、これに反し人夫は少なく、まだ成功の見とおしが立ちません。今郡司などが申しますには、当国出身の僧空海は、まことに行ない高く立派な人で、山中で座禅をすれば鳥獣も馴れるという有様で、海外に道を求め徳を積んで帰国しました。このため遠くから姿を見かけただけで、その教えを乞うものが門前市をなすという有様です。現在故郷を離れ京都に常住しておりますが、百姓がこれを慕うこと、まことに父母の如くであると聞いております。若し師がここへ来て、池の工事を援けてもらえるならば、百姓たちは履物をひっくり返すようにあわててお迎えするでしょう。どうかしばらく池修築の別当として派遣くださいますようにお願いします。」(日本記略)

この願書が出されたのが弘仁2年4月であったが、朝廷は直ちに翌5月にこれを許可し、弘法大師空海は沙弥(僧)1人と童子4人を従えて帰郷し、現地に赴き修築の構想を練り上げたと伝えられている。計画が固まり工事が始まると空海は堤防東端の小高い丘に護摩壇を設け護摩を炊き仏の加護を祈ったという。この場所は「護摩壇石」と呼ばれ今も残っているが、昭和の堤防かさ上げ工事により池の中の離れ小島となっている。

空海の帰郷を伝え聞いた近郷近在はもとより、国中からはせ参じた大勢の農民たちは修築工事に励んだという。当時、築堤工事はほとんどが人力のため、工事に関わる人夫の数が工事の成否を左右するので、その点、空海のけた外れの動員力に加え、卓越した水利土木技術により工事は順調に進み、わずか数ヶ月で工事は完成したといわれている。

しかし、こうして復旧した満濃池もそれから30年後の仁寿元(851)年には大洪水のため早くも決壊の悲劇に見舞われている。その後、何度も決壊し修復を繰り返しているが、源平合戦の頃決壊した後には復旧されないまま450年もの間放置されることとなる。そんな満濃池が日の目を見ることになったのは江戸時代になってからのことだ。かつての池敷には、もはや池の形はなく「池内村」という村落が形成されていて大半の土地は豪農の矢原正直が所有していた。
当時さぬき一国を修めていた生駒藩の後見役である藤堂高虎の家臣、西嶋八兵衛は、豪農、矢原正直を訪満濃池の再興に協力を求めた。

「満濃池古図」の注記によると「西嶋氏、寛永3年4月、矢原正直方へ来たり、当郡の年々の干損(日照りのため農地が損害を受けること)につき懇願御座候につき、池内所有の田地、残らず差し出し候」とあり、西嶋氏の願いに対し、矢原氏が快く了承して池敷きの所有地すべてを提供し退去したことが記されている。そんな矢原氏に対し八兵衛は、池尻(池のすぐ下流)に若干の土地を与え「樋(ひ)の外(わき)五十石(こく)」と称して、満濃池の水を常時使用する権利を与えたという。

工事は寛永5(1628)年秋に着工し、同8年2月に完成した。専門家の試算によると、その貯水量は約500万トンの規模で、当時としても国内有数の規模であったとしている。その後、明治から昭和にかけ3回のかさ上げ工事を実施し、今では貯水量1540万トンをほこる国内最大級のため池となっている。また、満濃池は平成(2016)年、国際かんがい排水委員会から四国で初めて認定され「世界かんがい施設「遺産」に登録された。
自然豊かな、満濃池左右岸の丘陵地帯には「国営讃岐まんのう公園」や、「香川県満濃池森林公園」が広がっていて、湖畔にはため池を一周できる遊歩道が整備され県民の憩いの場として賑わいを見せている。

香川の歴史を語るとき、よく「水との闘い」と表現されるが、香川の場合は水害との闘いではなく、水不足との闘いであり、戦後の高度経済成長時代にあっても水需要の増大にともなう水資源の確保は重要な課題であった。農業用水のみならず、上水道工業用水ともに長年慢性的な水不足に悩まされてきた香川県であるが、昭和の時代に「吉野川総合開発」が策定され、徳島高知両県の多大なご理解のもと、「香川用水」の実現により、大幅な水不足が解消されたところである。
しかし、今日においてもなおため池は重要な役割を果たしている。単農業用水の確保にとどまらず、大雨時の洪水調節や地下水の涵養、自然環境の保全、地域の安らぎや憩いの場として、また貴重な香川用水の調整池としてなど様々な役割を果たしている。

これらため池の多くは、その管理を地域の農家で組織する土地改良区や水利組合などの団体で担っているが、近年、農家の減少などからその管理が十分ゆきとどかない、また都市化によため池の水質の悪化が進行しているなど、様々な課題が浮上し、ため池が悲鳴を上げている。
ため池は、香川用水通水後の今日においてもなお、緊急時において県独自の「水がめ」であり、水資源に恵まれない香川県にとって貴重な施設である。その保全管理について、一般住民の方々にも、関心を寄せていただき、地域ぐるみで守り、後世に引き継いで行ければと感じている。
(参考、引用資料)・讃岐の池と水(桂重喜著)・さぬき水物語(平井忠志著)
満濃池全景「まんのう町教育委員会提供」


#2024年冬号